言葉の種をまく日々
言葉力をアップして人生を豊かに

プロフィール・実績

ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

ライターの ひがえりです。

このページでは、

・ひがえりってどんな人なのか

・どうしてライターになったのか

・ライターとしてどんな仕事をしているのか

といった個人的なことを書いていきます。

ライターとしての仕事内容・実績をご覧いただき「仕事を依頼したい」という方は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

ライターとしての仕事・実績

・パート先である「バッグ修理・洋服お直し店」のブログ更新作業メール対応、インスタ投稿などを担当しています。

写真撮影、写真の加工、canvaでのアイキャッチ作成、wordpress入稿、構成等すべての作業を担当しています。

・ランサーズにて、旅行関係の記事を継続で書かせていただいてます。

(シルバーランク/2021年11月〜2022年8月現在/継続中)

・ランサーズにて、体験談なども単発で書いています。

・サグーライティングでも時々執筆しています。

基本的な人格がはぐくまれた学生時代

ライターになりたかった中学生のころ

小さいころから、「本さえ与えておけばおとなしくて、育てやすかった」と母に言われるほどの本好きでした。

中学2年生の時、友だちに薦められて読んだティーンズ向け小説のあとがきで、初めてライターという仕事の存在を知り、興味をもちます。

そして、通信教育の「コピーライター養成講座」にお年玉をはたいて入学したのです!

コピーライター養成講座では、定期的に送られてくるキャッチコピー課題に取り組んで提出すると、プロのコピーライターから添削されたものが返ってくるシステムでした。

いくつか課題に取り組んで提出し、プロからの添削とアドバイスを受け取って勉強しました。

ところがある時どうしても、いいキャッチコピーを思いつかない課題があったのです。

どんな課題だったのか今となっては思い出せませんが、先生からの答えだけははっきり覚えています。

「このコピーでは、見た人から誤解を受けませんか?」

確かにそうだ、と納得はしたものの私にはそれ以上の言葉が思いつきません。

中学生だった私には、まだまだ知識も経験も語彙力も足りなかったのでしょう。

ライターという仕事の難しさを知り、それっきり通信教育の課題を送ることはやめてしまいました。

ただ、「いつかは書くことを仕事にしたい。だから文章力をつける」と決め、毎日ワープロで日記をつけることにしました。(ワープロソフト搭載のパソコンではなく、当時はワープロ専用機でした)

ブラインドタッチを覚えたのはこの頃で、日記を書くという習慣は、頻度や形を変えながらも、結婚して第2子が生まれるまで続けていました。

文芸部の部長をつとめた高校時代

高校時代は、頼まれて人前に立つ機会がやたら多かったように思います。

・友だちの頼みで引き受けた、文化祭の実行委員長

・先生から頼まれて引き受けた、文芸部の部長

・後輩に頼まれて引き受けた、生徒会選挙の応援演説

断る理由もなかったので深く考えずに全て引き受けていましたが、結果的にはこれがいい経験になりました。

というのも、人前に立って話すためには、必ずスピーチ原稿を書いたからです。

スピーチ原稿に限らず、文芸部部長という立場から校内誌に載せる読書感想文も書きましたし、校内の文化祭で配布するための小説集も作りました。

校内で生徒に人気のある先生達に過去の恋愛エピソードを取材し、脚色を加えて文芸部員が小説化し、文化祭で配るという企画。

企画、執筆、編集、製本、配付まで、文化祭実行委員長の仕事と同時並行で進めていたのでそれはそれは忙しい毎日でした。

そんな充実した高校生活が楽しかったからでしょう。進路選択の時期には自然と「高校の先生になりたい!」と考えるようになりました。

教師を目指し、教育心理学に興味を持った大学時代

大学は、地元の私立大学(商学部)へ進学しました。

今考えれば、「もっと遊んでもよかったのに」と思うくらい大学時代は勉強したように思います。

・「教育心理学」の講義は卒業単位に関係なくても時間の許す限りもぐる

・「自由参加だけどやる気のある学生歓迎」という教育心理学のゼミに参加

・親しい友人や先輩と一緒に「教職を目指す人の勉強会サークル」を主催

・不登校の小中学生と大学生をつなぐボランティア活動にも参加。

大学3年、4年では卒業に必要な授業を全て週4日間に詰め込み、残り1日はボランティア活動に費やす、という2年間を送りました。

大学卒業後の職歴

不登校生徒支援施設に5年勤務

「教師になるために」自分にできると思うことは何もかもやってきた大学時代でしたが、残念ながら教員採用試験には合格できませんでした。

ただ、ボランティア活動に参加していた先の「適応指導教室」(不登校生徒を支援する施設)で非正規職員として採用され、任期満了までの3年間勤めました。

その後結婚して、夫の就職先である茨城県へ。

そこでも経験をかわれ、「適応指導教室・教育相談センター」に勤めさせてもらうことができました。

しかし、約2年後に夫が退職し、ふたりで地元九州へ帰ることに…。

妊娠、出産から専業主婦へ・・・12年間子育てに専念

その後、キーパンチャーとしてデータ入力の仕事を半年ほど経験しましたが、妊娠・出産を機に専業主婦となりました。

夫も次のステップに向けての勉強中で収入が少ない中、私の収入まで途絶えるという極貧生活に!

この頃は、1パックのミンチをどうやって3日分の主食にするか…というようなことばかり考えており、生まれたばかりの長女のオムツもいただきものの布オムツだけで乗り切りました。

便利な育児グッズも、市販の離乳食も何も買わず、ただただ必死で子育てしていたなぁ~と思い出されます。

長女が2歳になるころ夫の再就職が決まり、すぐに次女を妊娠。

次女が赤ちゃんの頃は、夫が安定職についてくれたおかげで家では布おむつ、外出時は紙おむつ…と併用したり、たまには市販の離乳食パックを買ったりできるような生活になって、精神的にずいぶん楽になりましたね。

そして次女が幼稚園に入った!というタイミングですぐ末っ子を妊娠。

結果として、長女妊娠から末っ子が小学校に入学するまでの12年間を専業主婦として過ごすことになりました。

洋服お直しの店で短時間パートを始めるが・・・

末っ子が小学生になったのを機に、昼間の時間で短時間パートに出ることにしました。

家からほど近い「洋服お直し」の店でパートの募集があり、趣味程度の洋裁経験でも働けるかどうか聞いてみるつもりで面接を受けたところ、即採用。

洋裁経験はさほど重要ではなく、アイロンがけや仕上がりチェック、接客などが主な業務でした。

ところが、久しぶりの接客業にもようやく慣れてきたという頃、アレがやってきたのです。

 

新型コロナウイルス流行による、休業が!!!

 

人流の減少が影響を与えたのは、旅行や飲食業だけではありません。

みんなが外出を自粛するパーティーも結婚式もない旅行にも会社にも行かない

この状況は、「洋服お直し」業界にも大きな痛手となったのです。

なんとか状況を打開するため、「店のウェブサイトを立ち上げる」と言い出した社長。

この時、「一番縫えない」「短時間パート」「ブラインドタッチでパソコン操作ができる」という条件の揃った私に、サイト制作会社とのメールのやりとりや、サイトに載せる文章を書くこと、その他すべてのパソコン作業という仕事が舞い降りてきました。

パソコンは決して得意ではありませんでしたが、私の他に誰もできる人がいないのですから必死です。

この時から、「分からないことは全てググる」という癖がつきました。

パソコンの設定などという難しいことは全て夫に任せてきた人生でしたが、ここは自力でやるしかありません。

「人間、追い詰められれば案外できるようになるものだ」というのが実感で、なんとかウェブサイトも立ち上がり、現在はライティングの勉強をしながら、店のブログを更新する仕事をさせてもらっています。